Siemens Healthineers の歴史上、最も喜ばしい葉書

2020-06-16

1896年1月中旬、ヴィルヘルム・コンラッド・レントゲン博士(Wilhelm Conrad Röntgen) のX線発見からわずか数日後、医療のある領域での検査にX線が使われ始めました「glass patient(ガラスの患者)」 という長年の夢が突如実現し、わずか24 時間足らずで、多くの診断方法ががらりと変化を遂げたのです。

「光線療法の医師」 と呼ばれたのち、放射線技師として世に認められるようになった彼らですが、技術的な問題にも直面していました。先駆的な放射線学者ハインリッヒ・アルバース・シェーンベルク(Heinrich Albers-Schönberg)はこう書いています。

『初心者にとって、チューブを正しく扱うことは非常に困難である。というのも、多くのチューブは不要なスパークオーバー、つまり破裂放電によって損傷を受けるからだ。』  

 

1910年頃の高周波実験室

時折、チューブは大きな音を立てて粉々になり、ガラスの破片が四方八方に飛び散りました。そのため、シェーンベルクは、"チューブ破損の際に目の保護を" と、患者の顔を布で覆うことを提案しています。

破損が起こる要因として、当時の真空管はもともと気体の研究用に設計されたものだったためX線を全く出せなかったか、もしくは扱う人の手先の器用さ、物理学の知識の有無、さらには単に運によるものなどと考えられていました。

Reiiger, Gebbert & Schall factory in Erlengen in the year 1896
1896年のライニガー・ゲバート&シャール(RGS)社、エアランゲン

ドイツ エアランゲンに本社を置くライニガー・ゲバート&シャール(RGS)社は、医療技術を専門とし、Siemens Healthineers の前身であるシーメンス&ハルスケ社に次いで2番目に歴史が古く、X線が発見されるまでは光線浴や電気治療器など治療器具の製造を行っていました。

X線発見の公表から3日後、RGS社のオーナーであるマックス・ゲバート(Max Gebbert) は、従業員の一人で技術者のロバート・フィッシャー(Robert Fischer)をヴュルツブルクに送り、レントゲン博士を訪ねて発見の内容について聞いてくるようにと指示しましたが、Siemens Healthineers の史料アーカイブには、『レントゲン博士は面会を完全に拒否、フィッシャーを受け入れませんでした』 と記載された資料が残っています。

代わりにフィッシャーはレントゲン博士の助手の一人を紹介され、その助手は 『フィッシャーに小さな装置を操作するところを見せてくれました』 と記載があります。

16-years-old girl's head
ヨゼフ・ローゼンタールは1896年10月、ヴィルヘルム・コンラッド・レントゲン博士に16歳の少女の頭の画像を送った。

フィッシャーの報告を受けてマックス・ゲバートは、エアランゲン大学の物理学者であるアイルハルト・ヴィーデマン(Eilhard Wiedemann) に協力を得ます。ヴィーデマンはレントゲン博士がX線を発見した時に使っていたガラス管と似たようなものを用いた経験が既にあったからです。ヴィーデマンはゲバートにいくつかの実験方法を推奨し、RGS 社は若手電気技師のヨゼフ・ローゼンタール(Josef Rosenthal) にこの実験方法に取り組むよう指示しました。

『物理学の研究室で使われていた陰極線管を使って最初の実験を行ったのです。当時はX線の本質とは何かという概念を誰も持っていなかったので、通常の電球のフィラメントに過負荷をかけることによって神秘的な光線が生成されるのではないかなどと、多くの電球を燃え尽かせ無駄にしながらも、あらゆる可能性を検証していました。』ローゼンタールは、RGS社におけるX線技術の黎明期をこのように振り返っています。

Postcard
Siemens Healthineersの歴史上、最も喜ばしいものと言える実際の葉書-1

やがてローゼンタールは、『X線をうまく発生させるコツは、専用の特別なチューブが必要であると気づきました。1896年には、それを使用して驚くほど美しいX線を発生させることに成功したのです』 と述べています。彼はこの専用のX線管を使用して16歳の少女の頭部を撮影し、得られたX線画像をヴュルツブルクのレントゲン博士に送りました。数日後、RGS社の歴史上、最も喜ばしいといえる葉書が届きました。

“あなた方のX線管は見事だ、とても素晴らしい”

1896年11月3日、レントゲン博士がRGS社宛に送った葉書にはこのように書かれています。

『拝啓:頭部画像をお送りいただき、誠にありがとうございます。地元の物理研究所に説明するため、貴社の製作した2本の真空管を使用方法と共に、なるべく早めにお送りいただけませんでしょうか。敬具 W. C. レントゲン』

Röntgen
レントゲン博士の像。右手にしているのは、Siemens Healthineers歴史上初の医療用小型X線管。
出典:ドイツ レントゲン博物館

ローゼンタールはすぐにレントゲン博士に2本のX線管を発送したところ、3週間後に再び連絡がありました。
『貴社のX線管は本当に素晴らしい』 という冒頭で始まったものの、続いてこう綴られています。『どうか貴社のX線管を30マルクでなく、20マルクで譲っていただけないでしょうか』

当時、レントゲン博士の予算は限られており、X線管はあまりにも高価だったのです。

『本件は特殊な例ですし、今後も我々からの発注が見込めることをふまえますと、他社との経験からもこの提案に応じていただけるものと信じております。もし、この提案に同意いただけますなら、いま使用しているX線管と同等の小さいものを2本と大きいものを2本、計4本を送っていただけませんでしょうか。』

確かにこの提案は、RGS 社にとって無理な要求ではありませんでしたが、残念ながら史料アーカイブにはその後のことが残っていません。しかしベルリンのポツダム橋に建設予定であった記念碑のモデルとしてポーズをとるレントゲン博士の手には、医療用初のRGS社のX線管を持っていることから、容易に想像がつくことでしょう。

Company catalog from Reiniger, Gebbert & Schall from the year 1897
ライニガー・ゲバート&シャール(RGS)社のX線装置カタログ(1897年)

1897年以降、RGS 社は世界初のX線装置のカタログにX線管の広告を掲載しました。このX線装置の販売は瞬く間に大成功を収めました。1898年には、RGS社の従業員数はX線発見以前の3倍に達していたにもかかわらず、膨大な需要に対応するにはまだ足りず、数年しか経っていない工場を拡張する必要があったと記録に残っています。