コンピュータによるシミュレーションは、治療に風穴をあけるだろうか?デジタルツインは、医療の世界を一変させる可能性を秘めています。
データの収集・交換という大きなタスク
ポテトチップスを1袋食べたときの身体へのネガティブな影響と、代わりにグリーンスムージーを飲んだ場合のメリットとを、アルゴリズムで計算することは可能なのか?
しかも、一人ひとりの予後予測をするという形で…。イスラエルにあるワイツマン科学研究所の科学者たちは、このような課題を念頭に研究を行っています。

800人の被験者に1週間にわたって血糖値を測定する機器を装着し、食事46,998回分の代謝の個人差を評価しました。また、被験者の食習慣、身体活動、医学的背景、マイクロバイオームに関する情報も収集しました。
膨大なデータをもとに、人工知能(AI)がパターンを特定し、ある種の食品に対して被験者が示す反応はどのようなものかを推定するアルゴリズムを開発しました。その結果、AIが示したガイダンスに従った被験者は、栄養士がアドバイスした比較群と同程度のメリットを享受したという驚くべき結果が得られました[1]。
理論的なシナリオをリアルタイムに再現
フロリダ大学のシステム生物学者のReinhard
Laubenbacher氏は、COVID-19のようなウイルス感染症対策にも、これと同様の技術を取り入れるよう提案しています[2]。
Laubenbacher氏は、患者さんの個人データをできるだけ集め、コンピュータで様々な病態のモデルを走らせれば、将来のシナリオをリアルタイムに再現できると提唱しています。
彼のようなシステム生物学者は、細胞と臓器の根本的な関係について研究しています。データを体系的に整理することでそれらの関係が明らかになり、革新的な医用技術や医薬品の開発につながる重要な知見を得ることができるのです。
“デジタルツイン”[3] によるプログラミングは、膨大なデータに依存しています。さらに、新しいシミュレーションを行えるように、常にデータを蓄積し続ける必要があります。
デジタルツインとは、実際の製品やプロセスを仮想的に再現する技術のことで、必ずその製品やプロセスの特性についての情報を含んでいます。このコンセプトはすでに産業界で活用されており、製造業者は開発の一つひとつの段階を、仮想表現を用いてトラッキングできるようになりました。その結果、新製品や改良品の最重要部のテストを非常に早い段階で行うことができ、資源の無駄も減らせるのです。
みんなのデジタルツイン?
デジタルツインの技術は産業プロセスの多くの面を改善することができるものの、そこで得た知見を医療に採用するのは、はるかに難易度が高いといえるでしょう。患者さんの全体像の作成には、何百万ものデータセットを用いてニューラルネットワークをトレーニングする必要があります。そうして初めて、このデータを人間モデルに組み立て、個々の患者さんの初期状態を類似のデータセットと比較することで、特定の患者さんに対する結論を導き出すことができるようになります。
昨今、治療の選択や投薬についての決定には柔軟性が求められており、いまだに試行錯誤が続いています。治療の成否は、患者さんの年齢、性別、遺伝的素因、さらには体内で起こる複雑な生化学的プロセスの影響を受けるためです。
また、供給されるデータのクオリティも重要です。たとえば、不整脈や動脈硬化、頻脈などの症状がある患者さんのCTスキャンで優れた画質を実現することは容易ではなく、特に経験値がものをいうことがあります。しかし、アプリケーションによる支援があればパーソナライズされたスキャンを行うことができ、クオリティの高いデータ作成という必要条件も満たすことができます。
浸透しつつある個別化医療
将来的には、このようなバーチャルなツインが、医療システムにおいて特定の患者さんを表現するものとして機能することを目指しています。血糖値をモニターする研究のように、デジタルツインは、ライフスタイルの変化が一人ひとりに与える影響を予測できるかもしれません。
特定の年齢層や生活状況において起こりうる反応を一律に示すのではなく、たとえば薬の副作用を個別に予測するような形が考えられるでしょう。あるいは、患者さんの反応を事前に予測できるため、リスクを負うことなく、特定の患者さんの状態に応じて治療を決定することが可能になるかもしれません。とはいえ、臨床画像や血液の測定値をはじめ、検査のたびに更新されるデータをもとに、患者さんの生涯にわたる完全な生理学的モデルを提供するには、道のりはかなり長いと言えます。
しかし、身体の各部位のデジタルツインは、すでに手の届くところにあります。従来の3Dモデルとは異なり、非常にダイナミックで、さまざまなシナリオを実行することができます。なかでも臓器モデルは、臓器や臓器システムの構造と動きをシミュレートし、また、疾患モデルは、進行中の疾患として観察され病理学的プロセスのすべてを明らかにします。将来的には、デジタルツインは病院経営にも応用できるかもしれません。
研究チームはまず、マウスの肝臓で胆汁の流れを測定し、数学的手法を使ってそれに対応するモデルを作成しました。現在、このモデルをヒトの肝臓に応用するための研究が進んでいます[4]。
治療方針の決定を容易にし、医療チームの負担を軽減する
Siemens Healthineersは、スマートな電子カルテを出発点として、画像診断やラボ診断の分野でデジタルツインの開発をサポートしています。その目的は、AIとコホート分析からの洞察を用いて、医師が診断や治療に関する意思決定をしやすくすることです。たとえば、AIを搭載したクラウドのワークフローソリューションがあり、撮像された画像を解釈する際の反復作業の負担を軽減し、診断の精度向上をサポートしています。また、AI-Rad Companionには、画像データセットの自動ポストプロセッシングを可能にするアルゴリズムが組み込まれています。
デジタルツインの障壁とは?
いつかAIが将来の健康について、個別にアドバイスしてくれるようになる…。ということは、病気の治療のためにある現代医療が、やがて私たちの健康を見守る医療へと取って代わるということでしょうか。病気の早期発見とより精度の高い治療が可能になれば、将来、病気はそれほど深刻ではなくなるのでしょうか。しかし、それらが現実となるには克服すべき課題があります。そしてそれは、技術的なものだけとは限りません。
現代のヘルスケア企業は独自のデータインフラを保持していますが、これらのリソースはほとんど、それぞれのデータサイロに留まっています。データ保護に関する懸念、データ流出の危険、テクノロジーの特殊性など、データを開示しない理由は山ほどあります。しかし、この豊富な情報を活用すれば、根拠を元にした治療方針の決定や副作用の軽減、患者さんのニーズに応じた入院計画、医療機器のカスタマイズなどが容易になるため、ジレンマが生じるのも事実です。
いずれにしても、個々のバーチャルツインを作成するには、慎重に収集されたデータセットをタイムリーに利用できることが基本条件となります。さらに、このデータはその人の生涯を通じて、あるいは死後も、後世の人々のために維持・保管されなければなりません。これこそが問題の核心です。そもそもデジタルツインを作成するのに必要なのは、私たちが生命そのもののように保護しているデータなのですから。
By Andrea Lutz, Doreen Pfeiffer
Andrea Lutz: 医療、テクノロジー、ヘルスケアITを専門とするジャーナリストであり、ビジネストレーナーでもある。ドイツ、ニュルンベルク在住。
Doreen Pfeiffer: 医学や生物科学に関連したジャーナリズムを学んだ後、Siemens Healthineersでエディターとして勤務。